本日4月22日は鳥濱トメの御命日となります。
鳥濱トメは、昭和4年から鹿児島県川辺郡知覧町(現:南九州市知覧町)で「富屋食堂」を営んでおり、トメが40歳の時、大東亜戦争開戦翌年の昭和17年に陸軍指定食堂となりました。
知覧飛行場からの特攻が始まったのは、その3年後であり、知覧で学び各地の航空基地へ赴任していた懐かしい顔が続々と知覧へ帰って来ました。トメは明日の無い彼らのために出来る限りのことをしてあげようと、自分達が住んでいた食堂の2階を彼らがゆっくりくつろげる場所として提供しました。また、お金をもらう以上にもてなし、自分の着物や家財道具を売ってまで食材を調達して彼らをねぎらいました。
ある時、規定営業時間以降も特攻隊員をもてなしていたことを憲兵に見つかり規律違反として連行されました。トメが「あの子たちは2、3日したら体当たりするのだから、それくらいしてもいいじゃありませんか!」と答えたことから憲兵に殴る蹴るの体罰を加えられ、顔が腫れ上がってしまいました。トメは自分の命を張ってまで深い愛情で彼らを包み込み、「お母さん」と慕われるようになりました。
沖縄へ比較的近かったこともあり、知覧基地から出撃した特攻隊員は439名にのぼりました。戦争中は「軍神」などと崇められた特攻隊でしたが、敗戦後は、少なくはない国民から手のひらを返されたように非難されました。
トメは、世間が何と言おうとも信念を曲げることなく、戦後すぐに飛行場跡地に棒杭を立てて墓標代わりとし、毎日欠かさず参拝を続けていました。「特攻隊のあの子たちの為に観音堂を建てなくてはならない。お国のために散らしたあの子らの命は、お国が弔わなければならないんだよ。」と言い続け、観音堂建立のために奔走しました。 その願いが叶い、飛行場跡地に観音堂が建立されたのは敗戦から10年後の昭和30年秋のことでした。
最初の慰霊祭が開催された後も観音堂へ参拝に来る人は少なく、トメは近所の子供達を観音堂へ連れて行き、掃除をさせてから手を合わせ、特攻隊員のことを語りながら果物やおやつなどを食べさせました。観音堂に参拝することが「当たり前」になっていくように長い時間をかけて尽くしたのです。それが「特攻隊慰霊顕彰の町 知覧」の礎となり、現在へと続いています。
そうして、鳥濱トメは、平成4年4月22日、彼らの待つ天国へと旅立って行きました。特攻隊員たちから「俺の残りの人生あげるから長生きしてな」と半生を託され、89歳10か月の大往生でした。
「知覧特攻基地戦没者慰霊祭」は毎年5月3日に観音堂前で催行されており、昨年は約700名の参列がありました。昨年8月にパリオリンピックの卓球日本代表 早田ひなた選手が帰国後にやりたいことについて「鹿児島の特攻資料館に行って生きていること卓球ができることが当たり前ではないということを感じたい」と話してくれたことから全国的に意識が高まり、今年は参列者の増加が予想されます。当会も例年通り参列し、鳥濱トメが遺した特攻隊員への慰霊顕彰の気持ちを受け継ぎ、その志を一人でも多くの方に伝えていきたいと思います。
鳥濱トメの御命日に際し、皆様にもお手を合わせていただけましたら幸甚です。
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