昭和元年六月五日生 新潟県小千谷市出身
昭和二十年六月六日 陸軍特別攻撃隊第一〇四振武隊
戦死後 二階級特進 少尉任官
当会で共催させていただいている、カートエンターテイメント舞台『帰って来た蛍』や、数々の映画や著書などでも紹介され非常に有名です。
大東亜戦争末期、敗戦の色濃くなった日本軍が取った「と号作戦」いわゆる「特攻」。10代~20代の若い隊員たちが航空機に250キロ爆弾を抱え、連合国の艦船に突入する百死零生の攻撃方法です。宮川少尉もまた、特攻隊員でした。
宮川三郎少尉は昭和二十年五月半ばころ、富屋食堂に姿を現しました。雪国「新潟」小千谷の生まれでした。
知覧に近い「万世飛行場」から、一度は特攻出撃したものの、機体の調子が悪く帰還した経緯があり、生き残りの烙印を押され、不忠の汚名を着せられていました・・・。
しかし宮川少尉にもついに再出撃の命が下ります。出撃前夜、富屋食堂を訪れた宮川少尉。その日は宮川少尉にとって満二十歳の誕生日でもあったのです。鳥濱トメは心づくしの手料理を振る舞い、宮川少尉の誕生祝いと出撃のはなむけとしました。
宮川少尉はその夜、トメにこんなことを伝えていました。
「おばちゃん、俺、心残りのことはなんにもないけど、死んだらまた、おばちゃんのところへ帰ってきたい。そうだ、蛍だ、俺、この蛍になって帰ってくるよ。俺が帰ってきたら、みんなで<同期の桜>を歌ってくれよ。」
宮川少尉出撃の日の夜のことです。
ラジオが9時を告げ、ニュースが始まってすぐのことでした。わずかに開いた表戸の隙間から一匹の大きな蛍が入ってきたのです。二人の娘たちは、ほぼ同時にその光景に気がつき叫び声をあげました。
「お母さーん、宮川さんよ、宮川さんが帰ってきたわよ!」
トメは息を呑みました。
そこには、紛れもなく帰ってきた「宮川少尉」がいたのです。気がつくと、店にいた兵隊たち、滝本伍長、そしてトメと娘たちは「同期の桜」を歌い始めていました。
貴様とおれとは
同期の桜
おなじ航空隊の
庭に咲く
咲いた花なら
散るのは覚悟
みごと散りましょ
国のため
貴様とおれとは
同期の桜
離れ離れに
散らうとも
花の都の
靖国神社
春の小枝で
咲いて逢ふよ
宮川少尉はトメたちとの「約束」を果たしました。そして、現代を生きる私たちに日本の未来を託し、今も見守ってくれていると思います。