鳥濱トメ 明治35年6月20日鹿児島県坊津生まれ―
- 18歳で鳥濱義勇と結婚、昭和4年・27歳のときに鹿児島県知覧町で「富屋食堂」を開業。 大東亜戦争に突入した翌年昭和17年には陸軍指定食堂に選ばれ、多くの飛行兵が訪れることとなりました。それは知覧に「大刀洗陸軍飛行学校知覧分教場」が誕生していたからでした。
- 知覧は戦争末期、航空機に250キロ爆弾を抱えて敵艦に体当たり攻撃を敢行する「特攻隊」の最前線基地となり、昭和20年3月からは毎日のように沖縄へ出撃していきました。その出撃前のわずかな日々を富屋食堂で過ごした隊員たちはまだ10代から20代の若者達でした。
- トメは隊員らをわが子のように慈しみ、私財を投げ打ってまでも親身に接しました。いつしか、「特攻の母」と呼ばれるようになっていました。
- 6月頃には知覧からの出撃もほぼ終焉をむかえ、それからわずか2か月後の8月15日に日本は終戦を迎えました。
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- 終戦直後、トメは飛行場跡地に1本の棒くいを立てて「これがあの子たちのお墓だよ。」と、2人の娘たちにそう言うとそれから毎日欠かさず通い、手を合わせ続けたのです。戦中は「軍神」と呼ばれ神様として崇められた特攻隊員たちでしたが、敗戦とともに世論は一変し世間の風当たりはものすごい逆風となりました。生き残った特攻隊員は「特攻くずれ」と呼ばれ、軍国主義の象徴などとさげすまれることになります。命を懸けて国や国民を守ろうとした彼らを・・・。
- それでも、世間の風向きに関係なく鳥濱トメは長い間にわたって特攻隊に対する慰霊の心と、平和の尊さを命懸けで誠心誠意伝え続けました。トメは時の町長に再三に渡り働きかけ、飛行場跡地に観音堂が建立されました。終戦からすでに10年が経っていました。しかし、観音堂は建ちましたが最初は誰もお参りに来ない。このままでは観音堂が建ったのに特攻隊のあの子らがうかばれない。トメは毎日通い続け、さらに近所の子供らに観音堂のお参りをさせ、掃除をさせてお菓子を配り、語り続けました。未来ある子供たちに伝えていくことは非常に意味のあることでした。
- トメは、晩年脚を悪くして杖をついていましたが、雨の日ともなれば、片手に杖、もう片手にはお供え物やお花を持っておりましたので傘が差せず、高齢となったトメにとってはまさに「命懸け」での参拝となりました。
- それでも、トメはどんな時でも参拝しない日はありませんでした。
- 今では毎年5月3日に「知覧特攻基地戦没者慰霊祭」が執り行われ、全国から1000名余の参列者が訪れます。
- トメは、平成4年4月22日、89歳で隊員たちのもとへ旅立たれました。
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