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悠々の煙を噴き上げる活火山「桜島」の麓60万人都市鹿児島市から南へ、山道を車で1時間走らせると小さな山間の町「知覧」があります。知覧は先の大戦末期、沖縄に上陸した米軍に対し20歳前後の若者達が250Kgの爆弾を飛行機に積み、敵艦に体当たりをしていった「陸軍特別攻撃隊」最大の特攻基地となっておりました。そんな特攻隊員から母親のように慕われた女性がおりました。軍の指定食堂「富屋食堂」の女将「鳥濱トメ」。隊員達はトメに本心を話し、両親への手紙を託しました。(当時、軍事郵便以外はスパイ行為でした。)
「日本は負けるよ。」と言った者。「次は本土上陸だ。絶対に上陸は許さない。」と言った特攻隊員。「俺は朝鮮人だから」と言い、遺書も書かずに富屋食堂でトメと娘達を前にアリランを歌った光山少尉。そんな特攻隊員にトメは私財をなげうち、食べたい物・最後にやりたい事を叶えてあげたのです。 「近いうち、九州上陸がある。」それは誰もが知っていて、日本最後の日は間違いなく近づいていたのです。6月6日宮川三郎軍曹はトメに言いました。「俺はホタルになって、おばちゃんに会いに来るから、宮川来たかと追わないでくれよ。」と・・目に涙を溜め・・・。 トメと家族は送り出しました。 そしてその夜、本当に一匹のホタルが富屋食堂に舞い込んで来ました。トメは叫びました「このホタルは宮川三郎さんですよ。同期の桜を歌って下さい。」と。出撃を待つ特攻隊員、トメや娘達も、泣きながら同期の桜を歌ったのです。そしてこの日が、ほぼ最後の沖縄特攻作戦となったのです。「米軍がやってくる。」トメも死を覚悟しました。 その後すぐ日本は三百万人を超える尊い命を失い、敗戦国となったのです。
トメは、娘達と共に飛行場跡に木の墓標を立て、祈りを捧げました。「町に特攻隊員の観音堂を」と願いましたが、最近まで英雄であった特攻隊員は戦争が終わるとまるで国賊扱い。生き残った特攻隊員も、死を選ぶ者が続出しました。しかしトメは語り続けました。【若者達は、はっきりと私に言った。「愛する人を、両親を、故郷を、守るのです。」】と。 真実を語り継がなければならない、若者達の尊い犠牲を忘れない為に、トメは自費も捻出してやっと願いが叶い、昭和30年「知覧特攻平和観音堂」が建立されました。毎日ひとりで「花を枯らしてはならん。誰も来てくれないから。」と、慰霊の日々は続きました。休日になると私達孫を観音堂に連れて行き掃除をさせた後、おばあちゃんはもう年だから「特攻隊の真実を、次世代へと語り継いでね。」と、話しをしてくれました。 年令を重ねていったトメは遂に歩けなくなり、晩年は車いすでの参拝となりました。平成4年、私に「おばあちゃんを、みんなが待っているから」と語ると、4月22日89歳でこの世を去っていきました。まさしく、命をかけた戦中の行動、戦後の慰霊の日々でした。 私は、すべて憶えております。祖母トメと過ごした31年間、語り継がれた真実を。これからもつないでいく為に「知覧特攻の母鳥濱トメ顕彰会」に賛同し、全てにおいて協力を惜しみません。過酷な時代に生きた若者達がいました。それを愛した鳥濱トメがいました。だからこそ、今の私達がいるのです。 ホタル館 富屋食堂 初代館長 鳥濱トメ 孫 鳥濱 明久