平成4年4月22日
特攻の母と呼ばれた鳥濱トメは、鬼籍へと入りました。89歳の大往生でした。
昭和の初めころから鹿児島の知覧町(現南九州市知覧町)で『富屋食堂』を営んでいました。大東亜戦争開戦後、陸軍指定食堂となった富屋食堂には多くの若者たちが訪れました。
戦争末期には知覧の基地は特攻隊の出撃基地となり、トメはその特攻隊員を私財をなげうってまで、もてなしました。当時、特攻隊員は全国から知覧に集められていて、その出撃前の最後のひと時を深い愛情で包みこみ、彼ら全員の”お母さん”となったのがトメでした。
世の中では、戦争中は「軍神」などと崇められた特攻隊員でしたが、敗戦後すぐに手のひらを返したように特攻隊を「軍国主義の象徴」などと蔑み、生き残った方々でさえ「特攻崩れ」と言われ罵倒されました。
そんな中、世間が何と言おうとも「特攻隊のあの子たちの為に観音堂を建てなくてはならない」と言い続け、敗戦後に米軍が知覧に進駐しているときから、飛行場跡地に棒杭を立てお墓代わりとして、毎日毎日お参りしていました。
その願いが叶って、知覧の飛行場跡地に特攻観音堂が建ったのは戦後10年たった昭和30年9月のことでした。
それからも、トメは足腰が悪くなり通えなくなってしまうその日まで、欠かさず観音堂へお参りを続けました。
そのたびに、近所の子供達を観音堂へ連れて行き掃除をさせ一緒にお参りしました。特攻隊員のことを語りながら、おやつや果物などを食べさせて、観音堂に慣れ親しむよう、そして観音堂への参拝が「当たり前」になっていくようにと、長い時間をかけて尽力されました。
それが、現在も続く「特攻慰霊顕彰の町 知覧」へと続いているのです。
知覧の観音堂の御宝前で毎年5月3日に盛大な「知覧基地特攻戦没者慰霊祭」が催行されています。
我々は鳥濱トメが遺した、特攻隊員への慰霊顕彰の気持ちを受け継ぎ、一人でも多くの方に伝えていきたいと思います。
お時間がございましたら、トメの想いに皆様も手を合わせて頂けましたらと思います。
事務局