8/11(日)のサンデーステーションにて、鳥濱トメと特攻隊について放送されました。 また、ホタル館富屋食堂の館長で鳥濱トメのひ孫鳥濱拳大さんがインタビューされ出演しております。 公式X/YouTubeにて動画が公開されていますので是非、ご覧ください。 事務局
【「日本一のお母さん」#特攻隊員 の“遺書” 後世にどう残す?】
陸軍最大の特攻隊基地があった街、鹿児島・旧知覧町の「知覧特攻平和会館」では、特攻隊の遺書を後世に残すため“レプリカ”を作成 →特殊技術で、紙の質感から傷や汚れまで、遺書の現物を忠実に再現し展示
▼佐藤新平 少尉(23)の遺書 「お母さん江。思えば幼いころから随分と心配ばかしおかけしましたね、腕白(わんぱく)をしたり、又、何時(いつ)も不平ばかし言ったり、眼を閉じると子供のころのことが不思議なくらい、ありありと頭に浮かんで参ります」 「家を出発するとき、台所でお母さんが涙を流されたのが、東京にいる間中、頭に焼き付いて、あの頃どんなに帰りたかった事かしれませんでした。ゆっくりお母さんに親孝行をする機会のなかったことだけ残念です」 「軍隊に入ってお母さんにお会いしたのは三度ですね。態々(わざわざ)長い旅をリュックサックを背負って会いに来て下さったお母さんを見、何か言うと涙が出そうで、遂(つい)、わざわざ来なくても良かったのに等と、口では反対の事をいってしまったりして、申し訳ありませんでした」 「日本一のお母さんをもった新平は常に幸福でした。日本一の幸福者、新平、最後の親孝行に、いつもの笑顔で元気で出発いたします」 →1945年4月16日出撃、23歳で戦死。遺書を受け取った母親は泣き崩れる
▼穴澤利夫 大尉(23)が婚約者に残した遺書 →軍人ということでお互いの両親から結婚を反対されるも、2人の意思は固く、なんとか婚約を許される。しかしその後「出撃命令」が 「二人で力を合わせて努めて来たが、終(つい)に実を結ばずに終わった。婚約してあった男性として、散って行く男子として、女性であるあなたに少し言って征き度い」 『あなたの幸せを願う以外に何物もない。徒(いたずら)に過去の小義(しょうぎ)に拘る勿れ。あなたは過去に生きるのではない。勇気をもって過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと。穴澤は現実の世界には、もう存在しない』 「今更何を言ふのかと自分でも考へるが、ちょっぴり欲を言って見たい。読み度い本 『万葉』『句集』。観たい画 ラファエル『聖母子像』」 「智恵子、会ひ度い、話し度い、無性に。今後は明るく朗らかに。自分も負けずに朗らかに笑って征く」 →1945年4月12日、婚約者の智恵子さんからもらったマフラーを巻いて出撃し、23歳で戦死。智恵子さんは穴澤さんの煙草の吸い殻を生涯持ち続ける
▼特攻作戦で亡くなった隊員は6371人 軍指定の食堂の女将「特攻の母」と呼ばれた鳥濱トメさんは、特攻隊員たちをわが子のように可愛がり、時には検閲を恐れた特攻隊員から遺書を預かり、家族や恋人に届ける →食堂が復元されており、館内には特攻隊員の遺書などを展示 トメさんのひ孫 ホタル館 富屋食堂 鳥濱拳大さん 「80年も経つと手紙とか黄色くなってしまう。少しづつ(建物が)雨漏りだったり、そういった維持には結構お金がかかる」 →一時は閉館を考えるも、寄付を集めるなどして存続の道を模索 ホタル館 富屋食堂 鳥濱拳大さん 「(特攻隊員が)手紙にこめた思い、彼がどういった思いでこれを書いたのかというのを残していきたいと私は思っている」 鳥濱トメさんの生前の言葉 「(特攻隊員が)自分なんかの年を全部あげるから、おばさん長生きしてくださいねと。時には蛍になって帰ってくるからという人もいましたよ。敵機が何機来ても、おばさんのうちだけは守ってあげるからと。疎開しなくてもいいですよと。偉かったですよ」 「一つしかない命を投げ捨てて、散って行った若者たちの事、忘れてはならない」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e96b4dc4aacd32d64fd350d143d8cecdece3c413