平成4年4月22日、鳥濱トメは特攻隊員たちの待つ場所へと旅立ちました。多くの特攻隊員たちに「おばちゃん、俺の残りの人生あげるから、長生きしてな」と、声をかけられたトメは、89歳の大往生でありました。
鳥濱トメは、昭和4年から鹿児島県川辺郡知覧町(現:南九州市知覧町)で「富屋食堂」を営み、女将をしており、大東亜戦争が開戦した翌年に「富屋食堂」は陸軍指定食堂となりました。ちょうどトメが40歳のときでした。
戦争末期に知覧飛行場は特別攻撃隊の基地となり、全国各地から若い特攻隊員たちが集めれ、出撃していきました。知覧から出撃した陸軍特攻隊員は436名におよび、その特攻隊員の方々の出撃までの最期のわずかなひと時を、トメは深い愛情で包み込み、彼らから”お母さん”と慕われるようになっていました。
そうしてトメはいつのまにか「特攻の母」だとか「特攻おばさん」などと呼ばれるようになっていました。
戦争中は「軍神」などと世間から崇められた特攻隊でしたが、敗戦後、少なくない数の国民から、手のひらを返されたように「軍国主義の象徴」などと蔑まれ、特攻から生き残った方々でさえ「特攻崩れ」と罵倒されました。
戦後すぐに、トメは飛行場跡地に棒杭を立てて特攻隊員の墓標代わりとし、欠かさず毎日参拝を続けていました。トメは、ただひたすらに、たとえ世間が何と言おうともその信念を曲げることなく「特攻隊のあの子たちの為に観音堂を建てなくてはならない。お国のために散らしたあの子らの命は、お国が弔わなければならないんだよ。」と言い続け、奔走しました。
その願いが叶い、飛行場跡地に観音堂が建立されたのは昭和30年秋のことでした。
観音堂が建立され、最初の慰霊祭が開催されたのちも観音堂に参拝に来る人たちは稀で、トメだけがお参りしているのが日常でした。
それでもトメは近所の子供達を観音堂へ連れて行き、掃除をさせてから手を合わせ、特攻隊員のことを語りながら果物やおやつなどを食べさせました。子供たちだけでなくご遺族以外でも観音堂に慣れ親しむことと参拝が「当たり前」になっていくように、長い時間をかけて尽力したのです。
それが「特攻隊慰霊顕彰の町 知覧」の礎となり、現在へと続いているのです。
昭和30年に建立された観音堂も現在は三代目となり、今も大切に守られております。毎年5月3日には、「知覧基地特攻戦没者慰霊祭」が観音堂の御宝前で催行され、新型コロナの影響で参列できなかった年が続いておりましたが、本年は久しぶりに一般の方々も参列ができることになりました。
当会は鳥濱トメが遺した、特攻隊員への慰霊顕彰の気持ちを受け継ぎ、鳥濱トメの偉業を一人でも多くの方に伝えていきたいと思います。顕彰会もこの4月で設立10周年を迎えました。これもひとえにご支援ご協力いただいている皆様のおかげです。
鳥濱トメの御命日に際し、お時間がございましたら皆様にもお手を合わせていただけましたら幸甚です。
合掌